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当サイトがあくまでもプロダクトに固執しないのは編集者の「私情」と若干の背景、つまりファッションと表裏一体であるカルチャーを広く捉えることにある。
ジャパンファッションがストリートファッションを基軸としている以上、ストリート文化の紹介という側面がある。
ストリートには綿々とした集団的な記憶が息づいており、その集大成、もしくはその一部分という具合でファッションに発芽し、その他のカルチャーにも表出する。
海外で注目されている日本のストリート文化、そしてそれを担う文化としてのストリートダンス―
現在の日本のダンスシーンを概観するにあたり、絶対にはずせない歴史の証人は居て、そこを通して日本のリアルなストリートは伝わっていくと考えたわけだ。
職権乱用?
いや、たぶん違う。




東京の荒川を越えて、アポイントは金曜の夜の8時。
取材場所のカフェラウンジはエントランスが直線で、その先には別世界のような空間が広がる。


髪を後ろで結び、オンタイムで現れた彼をエントランスで見かけてから挨拶をするまでの間が思い出せない。
褐色の艶のある肌に、光沢を放つ黒のセットアップ。
そして赤いゼロハリバートン。
それは、彼のモーションが颯爽と早かったのか空間がフリーズしたからなのか。
たどり着けなかった、TVの先でしか見なかったはずが、新しいセンセーションと共に空間に同化した。
その日東京の真ん中を往復しても、決してすれ違う事のなかった様な人であることは他のスタッフにも分かったようだった。

ストリートダンサー 田中傑幸







お酒は飲まないというストイックな肉体はジムで鍛え上げられている。
後で気がついたことだが、この肉体の緊張感はアスリートのそれに近い。
それに「臨戦態勢」なのは、その体つき以外にもあるのが分かった。
日本人には少ない、直線的なオーラ。


田中傑幸は日本のストリートダンスの礎を築いた重要な人物である。




当時のストリートのエネルギー


1990年前後の話。
タイムラグなく情報が届く今と違い、何が新しいか=クールというベクトルがあった。
つまり今のように情報の溢れる時代ではなく、自分から取りに行かないといけない時代でもあった。だからこそ、大きな差と創造性があった。
そして何より、私感だが、「色気」があった最後の時代であったのかも知れない。


当時新宿にあったディスコ、「NEW YORK NEW YORK」に、都内の高校生が集まっていた。
黒服がバットを持って睨みをきかせていた時代。
ユーロビート全盛の時代だった。
一時間に一回だけ流れる今で言うラップが目当てで、そこでHIPHOPを踊るのが彼らの「先取り感」であった。
『当時はニューヨークニューヨークの前のコマ劇場の横のロッテリアで、100円入れてハンバーガー食いながらジュークボックス見て、店内で練習してたっていうか技を盗んだみたいなことしてましたよね。』

深夜TVではZOO(1990年代に活躍した日本のダンスユニット)を輩出したDADA LMD(CLUB DADA)やDANCE DANCE DANCEなど、その手の番組が流れていた。
今とは違う、ダンスブームが日本を席巻していた―


新しい情報がかっこいい時代だった。
渋谷のアングラな店で、2週間から1ヶ月遅れのソウルトレインなどブートで購入していた。
『高価だったんですけど、見たことも無いブラックカルチャーに衝撃が。「何だこれは?」みたいな。いち早く見ていましたね。』

さらに座間キャンプに出入りしていた貴重な知り合いから新しい情報を手に入れていた。
『戦艦ミッドウェーとか帰ってくると、ミッドウェーと一緒にビデオとか混じってるらしくって(笑)それを流してもらったり。そこにはまさしくまだブレイクする前のMCハマーとかいて、「何だこのハイテンションは?」みたいな。これは面白いってなりまして。
家でも食器棚とかに映して夜な夜な踊るわけですよ(笑)
そういう踊りはやっぱりなかったんで。
それにやっぱりビデオデッキの一時停止、巻き戻し、再生ってのはよくやってまして(笑)デッキに拘って僕が最後に買ったのは3分の1再生とかできるやつですから、それでスローに拘りましたよねやっぱり(笑)』



―このワクワク感だった。
忘れかけていた当時の時代の肌感覚を細胞が微かに覚えていたから?
いや、それよりも情報過多の時代において既にあるものを選択するだけの現代の虚しさなのか。
ただの懐かしさだけではない。でもただの回顧ではない。
アナログ的な感覚への回帰と極私的なレクイエムだ。
©NTV This movie is subject to delete without notice.
『第一回大会のダンス甲子園のこの日は、前の晩、朝の4:00くらいまで、大阪のピエロとい うクラブにメンバー4人で乗り込んでかなり踊りで暴れてきました(*フロアーの場を支配したと言う意味です)。ダンス甲子園開催当日は、メンバー4人とも、睡眠不足だったりしました。ですが、前夜、大阪の人は、俺らの踊りをみて、完全にビックリしていました。大阪の人が、I.S.D.(インターナショナル・スタイル・ダンス)をみたのは、多分初めてだったんだと思います..。』

©NTV This movie is subject to delete without notice.
『このベイサイドで踊ったソロが話題となり、使用された音もコアなDJ達の中で話題になりました。踊った僕自身も感性で選んで選曲したため、アーティスト名が分からず曲名やアーティスト名が迷宮入りに...。しかし渋谷でお店を構える某有名DJの捜索の手 により12年の歳月をかけ発見されました。その貴重な音源は、MIX TAPE(*B面の頭 HIP-HOP MIDDLE SIDE に収録)により復刻されましたが、このMIX TAPEも今となっては販売が終了し入手困難になったと聞いています。』
大きな流れ―


田中傑幸はダンスを切欠にドラマやCMでTVに出るようになる。
名前と顔が知れ渡たる代わりに失ったものがあった。
いいことだけしか見えなかったショウビズの世界は「光が10あれば影が10ある」ところだと気付いた。
自由が不自由になり、やがて窮屈さを感じるようになる。


そんな時仕事で2週間NYへ行く。
そこには「自由」が待ち構えていた。
歩いている黒人に情報を聞いて毎晩クラブへ通い、睡眠は2時間しかとらなかった。
『いろんなものを目の当たりにするわけですよ。良い事も悪い事もやっぱりやってるからNYの人は。感銘を受けましたよね。』


写真集制作の一環でハーレムの125ストリートにあるアポロシアターを訪れる。
圧倒的な存在感だった。
『ジェームスブラウンが歌いマイケルジャクソンも踊ったここでできたらいい。このステージで俺も踊りたいと、もう一回来るぞって胸に刻んでしまったんですよね。』
しかし、アポロにどうやって入っていくか―
当時は方法論も、ノウハウも全く無かった。


帰国後芸能事務所を辞める。
その後NYへ頻繁に訪れるようになった。
そこでダンスビデオで競演したストリートダンスチーム(ブリーズチーム)と、ジョイントするようになる。
彼らの日本人とは違う切り口、考え方にインスパイアされ、視野が広がった。
『やっぱりそっちの方が面白いってなっちゃうわけですよ。』

         
日本人とNYの境で―

NYでは孤独との戦いでもあった―

『どうしようもなく孤独ですよ。めちゃめちゃ寂しいですよ。NY行って、孤独だなーと思って、酒飲んでも駄目だしとか思って。
それに「そっち」の世界にドロップアウトしようとすれば可能なんですよ。さすがにそれは違うだろってしませんでしたけど。
それでもあまりにも孤独すぎて、NYの紀伊国屋書店行って瀬戸内寂聴の「孤独を生ききる」って本買いましたもん。で、あそっか俺だけじゃないんだと思って。皆孤独なんだと思って。
慣れましたけど、でも結構僕は本に救われることがあるんですよ。』


ダンスクルーは皆黒人。
日本人が所属してやっているなんてことはあまり聞いた話ではなかった
『そういうことをやれている自分は、自分の生き方の道を走り始めたのかなと―』
5人のクルーの中で黄色人種は自分1人。
明らかに周りが自分を見る目が違っていた。
沸かせる踊りができないとお金が入ってこない。
修行と思考錯誤が始まった。
『色々と自分の概念をぶち破っていく訳ですよ、良い意味でも悪い意味でも。経験しちゃうと逞しくなっちゃうっていうか―』

 


自己主張しなくてはいけないのは最低条件。
日本のように情緒的なものはない。
常にクエスチョンして回答を得ていかないと、言わないと帰ってこない。
常に内で思っていることは吐き出して、伝える。
『でも例えばパフォーマンスしてて、アイムタイアードって言ったら怒られるんですよ。俺も疲れているからって、そんなこと言うなよみたいな』
それらの姿勢は自分を形成するものとして形成されていった。
喋らないと伝わらないのが英語。
フランスへ行ったときも韓国へ行ったときもそうだったという。



『NYCのサマータイムは、暑いので基本的に5番街のセントラルパークの入り口付近や、コンクリートを感じるタイムズスクウェア周辺でパフォーマンスをします。またNYCのウインターも日本同様に寒いので、あったかい地下鉄の駅構内でやります。』
(*映像は42 st &Times Square)
いくつかのトラック―


19で家を出て以来、独立して何かをやりたいというのはあって、それが「何か人に教えたい」というのとは自然につながった。
フィットネスクラブで支配人の前で踊ってみせ即合格、以来その場を借りダンスを教えるようになった。
一方で当時、社会現象で不登校児が問題になっていた。
知り合いに、彼らが明るくなって今よりも引き篭もらないために、ダンスで少し前向きになれるように教えてくれないかと依頼され、今続いているダンスサークルの前身となる活動がこの時に始まった。



またこの頃は時を前後してアポロ出演の時期でもあった。
このため日本とNYを4回往復することになり、NYの税関で 『なぜ君はこんな短い期間に何度も行き来するのか?』と、税関職員に聞かれた。
『ダンサーでショーをやりにきた』と伝えたら、職員は『そうか!!』と嬉しそうに応えた。

アポロは週間、月間、期間、年間チャンピオンというエリミネーションで進んでいく。
天国と地獄は観客のデシベルでの反応。
日本人同士では本当の反応が分からない。
リアルな意見とサバサバした世界に実力で勝負し、実力で勝ちたかった。


やがていくつかの幸運が訪れ、今でこそ日本で名が知れたアポロシアターへの道を切り開いた先駆者となった。
田中傑幸はTOP DOGチャンピオンを受賞したのだ。もちろん「黄色人種初」の快挙であった。



ステージで魂を昇華したのだった― 
   
色んなものを自分で経験して感じること―


『NYで一回急行と鈍行の乗り換え口にスタンバイしてて
メンバーが来るぞ来るぞ来るぞ来るぞって言ってて、
何が来るのかなと思ったら
ビューって電車が来て、
一斉にバァーって人が出てきたときに
「Five! Six! Seven&Eight !!」で踊り始めたんですよ。
けど踊ってんだけど、誰も見てねぇぞと思って、
見てねぇけどどうしたらいいかなあって(笑)
ゲリラ的にやったりして。そういのとか経験しちゃうと、、

今の教え子にも度胸付けさせるために東京のローカル駅で同じことさせたんですけどね(笑)踊っとけって。
一応バケツも置いとけって。金入んないと思うけどって(笑)

(問い)―自分のバリアを壊せみたいな?

そうそう、バリアが来ても違う表現方法に変えていけば絶対クリアできるじゃないですか。
真っ直ぐ行っちゃうからぶつかっちゃうんですけど、
HIPHOPなんて、例えば、歌が歌えないならトラック作ればいいし、トラック駄目なら、詩を書けばいいし、詩が書けなきゃ踊ればいい。踊りできなきゃグラフィックやればいいし。常に逃げ場があるじゃないですか。
こんだけやって何にもできていなかったならHIPHOPやめたほうがいいですけど(笑)。何かしらあればそれでどんどんやってくと。…そうすればできるんじゃないですか?HIPHOPなんか、そういう意味ではできちゃうじゃないですか。』




Q: どういう遊びをされていますか?

ダンス以外も他への興味も普通にいっぱいありますよ。買い物もしますし(笑)
静と動ではないですが、HPも自分で作るしパソコンで動画もやってます。
コツコツしたこともやるみたいな感じです。


―クラブって言ったら、、ある時行った時に、何かみんなDJブースの方向に向かって同じように踊っていたんですよ。
何かちょっと軽めの新興宗教みたいな感じで(笑)で、ノリが全然何コレって思って、みんな各々楽しんでないじゃんって思って。
それで俺何か面白くなくなっちゃって、それから行かなくなって。
でどうしようって、俺は何がしたいかって俺は踊りたいからってなって。
馴れ合いも無いんで、じゃあ踊れるステージがあって曲がかかってたらどこでもいいやってなって、全然名前が知れてない、…行ったくせに名前も覚えていないんですけど(笑)客が俺しか居なかったんですよ(笑)。俺と何か常連みたいなの(笑)。でか箱で(笑)
で、DJも何かやっぱそういうとこのDJってつなぎとか適当なんですけど、だけど俺が踊ってるからガンガンかけてくれて。
そこで一時間くらい踊るんですよ。大汗かいて。で帰ってくるみたいなことしてましたよ。
DJブースも高いから見えないんですよ。DJ居るんだか居ないんだか(笑)一応かかってるから。ハウスですよ(笑)踊って

逆に例えばキャパ300のところで500でカツカツに入ってても、僕ミニサークル作っちゃいますから(笑)。
で、そこだけ何かもうブラックホールになって。
つまんない時とかにミニサークルできてて、結構踊りとか見せるとみんな喜んでくれるんですよね。
結構半ば強引ですよ。
こういうふうに(肘で)どけちゃいますから
それもテクなんですよ。
ぶつかった振りしてこう・・・
で、サークルできてなんだなんだってなって。
踊り見せると、そうすると皆退屈だから喜んでくれるんですよ。

つまんなかったら自分で楽しい空間にしてしちゃうってことも、
半ば強引でも必要なんですよね。




Q: 現在を支えているものは何でしょう?

…月並みですが、内なる声や直感みたいな感覚を大切にしています。
情報がありすぎて、インプットしすぎてアウトプットできない状況があったりとか、
僕もやっぱり情報入れすぎちゃうとパンパンになっちゃうので、運動もするしジムにも行くんで。どっちかと言えば、体のアナログ的なものも鍛えたりするんですよ。
そうした時に得られるインスピレーションとかそういうものは大切にしていますよねやっぱり。絶対僕は大切にしてますけどね。




Q: 哲学的なものは何かありますか?

―僕の個人的な経験を通じて体験して得られた、あらゆる現象から、影響を受けて変化してゆき、そして構成されてきた、現在の思考が、僕自身の" 今 "の哲学になります。
現在から未来へ向けて―

『サークルも10年間やっているので、スクールにさせてある程度のスタジオを持てたらいいなと。
車で走ってて、物件とかも見てるんですけどね。
アメリカみたいなメガジムも興味あるけれど、今いる優秀なスタッフとともにいろんなダンスをカリキュラム作ってそこでやれたらとは思ってます。


例えばサッカーとか野球は一般の人に見てもらえると思うんだけど
まだまだストリートダンサーって言われて、それが将来なりたい職業ベスト10の中にも入ってないと思うし、
そういう意味では広い大義名分として、僕はやっぱりダンサーっていう生業はもっともっと一般のところまで下りてきて、もっともっと近いところで認知されなきゃいけないとやっぱり思っているんですよ。
それが僕のミッションだなと、思っているんですよ。

野球やサッカーではスターがいっぱいいるのに、ダンスの世界で少な過ぎちゃって、
まだまだスターになれる人はいっぱい居ると思うし、広い意味で身近に居る子供が将来なりたい職業になってもらいたい。
受験して良い大学行ってっていう旧態依然としたものがまだあって、
そうじゃなくて、プロダンサーになって収入を得られていくという、そういう職業に社会貢献として、僕らの世代はもう考えないといけないところなんで、同年代にも僕らがここでがんばってやんないと、いつまでたっても、狭いマスマーケットのままだよって。

カリスマ美容師のようにイメージが湧くじゃないですか。

ステップバイステップなんですけれど。
それをできたらいいなって。

そういう広い意味での大義名分として持っていないとモチベーションのモチーフにならないんで。
踊るだけだったら、ほんとに肉体労働と同じですから。
体を駆使して。
だけどやっぱり何か大義名分見つけて、そうしようと思わないと体に鞭入らないんですよ。
それが良かれな使命感だったらいいと思うんですよね。悪の方じゃなくて。』




Q: これまでの人生で最も大切なものは何だったのでしょうか?

『直感からくる内なる声、五感から感じる自分自身の感受性です。』






©NHK This movie is subject to delete without notice.






田中傑幸は、最前線にいた―
軒並み時代や人生からドロップアウトしていく人が多い中、堅牢で決して流されないインディビデュアル。
矛盾と閉塞感が蔓延する最近の日本において、彼の常にポジティブなバイブスは輝いていた。
こういったパワーが本来日本のストリートに溢れるべきエネルギーである。
彼の去った空間は、彼の残していったフレグランスのラストノートのように、心地良い予感と明日を生きる余韻が残っていた。











私が愛してやまない時代にやがてたどり着いたとき、憧れた時代は終わっていた。
その時代を生きた象徴として、田中傑幸は私の過去に居た。そしてこの日、彼は私の前に居たのだ。
たどり着けないものは時を越え、憧れのままだった。



この日私が忘れられなかった問いかけがある。

「大竹さんはどういう遊びをされているんですか―?」




あなたは最近、どういう遊びをされていますか?
田中傑幸オフィシャルページ
STREET DANCE HARAPPA
PROFESSIONAL DANCE BATTLE

取材協力: カフェサロンTRINITY http://cafesalon-trinity.co.jp/



JAPAN FASHION FOUNDER 大竹

日本語版特別増設ページ!

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